日本の百科事典
さいたま市(さいたまし)は、埼玉県の南東部に位置する市。埼玉県の県庁所在地及び最大の都市で、政令指定都市である。
都市雇用圏における東京都市圏の中心都市の一つであり、10区の行政区を持つ。2001年(平成13年)5月1日に、浦和市・大宮市・与野市の3市の合併により新設され、2003年(平成15年)4月1日に政令指定都市に移行した。その後、2005年(平成17年)4月1日に東に隣接する岩槻市を編入して現在の市域となった。100万都市の1つであり、日本の市で9番目の人口を有し、21県の総人口を上回る[1]。
さいたま市は、関東地方の中央部に位置し、政令指定都市で唯一内陸県に位置する。埼玉県内においては南部東寄りに位置するが、県内で用いられる地域区分では「中央地域」に区分されることが多い[注釈 2]。また、日本の事実上の首都である東京の都心部からは、北に約20キロメートルの距離にあり、横浜市や千葉市と比較しても、県庁所在都市としては東京に最も近い。
また、その市域は広袤が東西19.6 kmおよび南北19.3 km[2]、面積が217.43 km2[3]にわたる。
日本の政令指定都市としては川崎市、堺市に次いで3番目に狭い一方、埼玉県内の市町村としては秩父市に次いで2番目に広い。また、隣接市町村数(他都道府県の自治体を含む)も秩父市(15市町村)に次いで2番目に多い(12市)。
日本の政令指定都市ならびに都道府県庁所在地では初のひらがな表記の市であり現在も唯一の例である。このため、ひらがな表記の市では人口が最多の市である[注釈 3]。また、日本の都道府県庁所在地では文字数が最多(4文字)である[注釈 4]。
関東平野の中央部に位置するさいたま市には山地・丘陵といえる場所は存在せず、全域が台地および低地からなる。全域にわたって標高が低く、最も低い地点で海抜1.1 m(桜区大字下大久保)、最も高い地点でも海抜20.5 m(岩槻区大字表慈恩寺)である[4]。市の西境あるいはその近くに荒川[注釈 5]、東寄りに元荒川が、それぞれ北西から南東に流れており、これらの河川に近い市の西側、南側、東側の3方を低地で囲まれる。一方、市の北西側から南東に向かって、主に関東ローム層によって形成された大宮台地が伸びており、市の中央部を貫いている。この台地の中にも鴻沼川、芝川、綾瀬川などの中小河川が流れている。このような中小河川に沿って谷底平野や沖積平野などの低地が形成されているため、台地はいくつかの「支台」に区切られている。これらの低地には見沼や鴻沼などがあったが、江戸時代に干拓された。
つくば市(つくばし)は、茨城県の県南地域に位置する市である。学術・研究都市としての筑波研究学園都市はつくば市全域を区域とする。業務核都市、国際会議観光都市に指定されている。
農村が広がっていた地域であったが、1960年代から筑波研究学園都市として開発が進み、現在は日本国内最大の学術都市となっている[1]。国や県の政策により、1987年(昭和62年)に筑波郡谷田部町・大穂町・豊里町、新治郡桜村の3町1村が新設合併し、つくば市が誕生した[2]。さらに 1988年(昭和63年)に筑波郡筑波町、2002年(平成14年)に稲敷郡茎崎町を編入し、現在の市域になった。そのため、行政上の地区名として旧町村域に対応する谷田部、大穂、豊里、桜、筑波、茎崎が使用されている。
市域には多数の研究機関が立地している他、市の北端に日本百名山の筑波山を擁しており、観光地になっている[3]。また、2005年(平成17年)に首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが開業し[4]、市中心部のつくば駅から東京都の秋葉原駅まで最短45分で結ばれている[5]。つくば市は、東京都心から約50km、成田国際空港から約40kmに位置する。市を代表する観光地である筑波山は、市北部に位置する。筑波山周辺を除き、関東平野の一部であり筑波台地や稲敷台地と呼ばれる標高20m~標高30mの平坦な地形であり、関東ローム層に覆われている。また、つくば市の9月の標高は4月の標高より2cm低くなるが、市内にある国土地理院の研究によると、5月から8月に田植え用の大量の地下水をくみ上げるためである。
京都市(きょうとし 地元発音)は、京都府南部に位置する市。京都府の府庁所在地で政令指定都市。
日本の市では8番目の人口を有する(都区部を除く)。市内には794年(延暦13年)の遷都から、1869年(明治2年)の東京奠都までの1000年以上にわたって日本の首都として平安京が置かれていたため、「古都」と呼ばれる。
市域は令制国でいうと山城国葛野郡・愛宕郡・紀伊郡の全域、山城国宇治郡・乙訓郡と丹波国桑田郡の一部、さらに山城国久世郡・綴喜郡にもくい込んでいる[* 1]。
京都府最大の都市であり、府の人口の56.7%を占める(2021年12月1日)。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を一つの都市として考えない場合は全国で京都市のみである。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏[1] および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神都市圏(近畿大都市圏)の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模である[* 2]。
794年(延暦13年)に日本の首都になった平安京を基礎とする都市で、明治天皇が東京に行幸するまでの約1080年に渡って皇室および公家が集住したため「千年の都」との雅称で呼ばれる(首都に関する議論は「日本の首都」を参照)。平安時代、室町時代の室町幕府期には日本の政治が執り行われた唯一の中心地であり、鎌倉時代、室町時代の中の戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の幕末期などにおいても、日本の政治の中心の一つとして大きな役割を果たした。
平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、鎌倉時代以降は「洛中」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「京都」と呼ばれた。江戸時代には三都(江戸・大坂・京)、明治期には三市(東京市・大阪市・京都市)、大正期以降は六大都市(東京市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市)の各々の一角を占め、戦後には政令指定都市になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内流通が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣した。その伝統は現在も伝統工芸として残るのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、日本電産など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。
第二次世界大戦の戦災被害を一部のみ免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが国内外の観光客を惹き寄せる観光都市であり、「国際観光文化都市法」に基づく国際観光文化都市に指定されている。旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている[* 3]。
仙台市(せんだいし)は、宮城県の中部に位置する市。宮城県の県庁所在地であり、東北地方で唯一の政令指定都市。約109万人の人口を有し[1]、人口や経済規模など多くの分野で東北地方最大の都市である[2]。
仙台市都心部周囲には広瀬川や青葉山などの自然があり、また都心部にも街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」との雅称をもつ。市は「学都仙台」「楽都仙台」などのキャッチコピーも用いている。東北を代表する港湾およびサーフスポットである仙台港(仙台塩釜港)が北東部に、宮城県内の純観光地の中で宿泊客数第1位を誇る秋保温泉が南西部に、宮城県内で利用者数1位を誇るスプリングバレー泉高原スキー場が北西部にある。中国では、魯迅が留学した都市として知られる。
東日本等や海外(参照)の商店街イベントとして定着した七夕まつり(仙台七夕)、旧・仙台藩地域での仙台初売り、地方では困難な公的財源に頼らない大規模イルミネーションイベントのSENDAI光のページェント、「街角無料音楽祭」の定禅寺ストリートジャズフェスティバル、および、それがバリアフリー化したとっておきの音楽祭等、市民が中心となって創り上げた都市イベントを数々生み出しており、その運営ノウハウやフォーマットを市外・県外に移出する文化都市でもある。
現在の仙台市の推計人口は、東北地方の中で最も多い約110万人で、宮城県民の48%が居住し、秋田県、山形県よりも人口が多い。その仙台市が県内総生産の55.5%、県民所得の58.3%を占めており(2013年度)[3]、「仙台一極集中」と言われることがある[4][5][6]。また、仙台都市圏(広域行政圏)の推計人口は約154万人で、宮城県民の67.3%が居住する。このような集積度と東北における拠点性により、物販面では隣県に及ぶ仙台経済圏を形成している。
当市はかつての宮城郡南部と名取郡北部に市域が広がるが、両郡の東部に広がる仙台平野(狭義)は、西と北を陸前丘陵[注 1]、東を太平洋の仙台湾、南を阿武隈川に囲まれる。また、同平野の北部は長町-利府線断層帯[7] を境に、北西側が洪積台地、南東側が沖積平野に分かれる[8]。当地は、畿内に端を発する山道(後に東山道に再編)と海道(後に東海道に再編)とが合一する唯一の地[注 2] であり、その合一した街道は後年、奥大道や東街道と名称を変えながらも同断層帯およびそれに続く高舘丘陵[注 1]の東縁に沿って南北に通る重要な道として存在し続けた。伊達政宗による仙台開府以前の当地では、この街道沿いを中心に、同断層帯・丘陵より東側の沖積平野にある自然堤防などの微高地(以下「東方微高地」)にのみ町場が形成された[9]。「東方微高地」には、4世紀末頃に東北最大の雷神山古墳(現名取市、地図)や県内2位の遠見塚古墳(北緯38度14分17.5秒 東経140度54分52秒)が築造され、7世紀半ばの陸奥国設置後は国府とされる郡山遺跡(北緯38度13分24.5秒 東経140度53分34秒)[10][注 3]や多賀城(現多賀城市、地図)[11]、さらに陸奥国分寺(北緯38度15分3.3秒 東経140度54分10秒)や陸奥国分尼寺(北緯38度15分6.3秒 東経140度54分34秒)など同国の重要施設も置かれた。
多賀城が11世紀前半[注 4] に国府としての機能を失うと、陸奥国府は陸奥府中の南西部にあたる現・JR岩切駅(北緯38度18分3.3秒 東経140度57分15.6秒)周辺の七北田川沿い「東方微高地」に移転し、南北朝時代まで続いた[12]。12世紀には陸奥国府は多賀国府とも呼ばれるようになり、国府周辺には多賀国府町(たがのこう町)と呼ばれる、陸奥国の政治・経済の中心地としての町場が戦国時代まで続いた[12][13][14]。当時のその他の町場には、原町の宿場[注 5]、陸奥国分寺の門前町である国分日町、国分氏の小泉城下町[15]、粟野氏の北目城下町(北緯38度13分19.2秒 東経140度53分52.5秒)[16] などがあり、いずれも「東方微高地」にあった[9][17]。
慶長5年12月24日(1601年1月28日)より政宗は、伝統的な当地の中心地である「東方微高地」ではなく、同断層帯より西側の洪積台地に広がる広瀬川の河岸段丘上に仙台城(青葉城、地図)および仙台城下町(北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.5秒)を建設して仙台藩62万石の中心地とした[18]。城下は、南北道の奥州街道と、仙台城大手門から石巻街道(塩竈街道)へとつながる東西道の大町とが交差する芭蕉の辻を商業中心とし、国分日町が移転してきた国分町[注 6][注 7]、北目城下町が移転してきた北目町[注 8][注 7]、そして伊達氏に従って移転してきた御譜代町6町などの町人町を城下の街道沿いに配置した[14][17]。「東方微高地」では、小泉城および小泉城下町が政宗によって再編されて若林城(北緯38度14分12.2秒 東経140度54分7.8秒)および若林城下町となったが、死後に廃城および仙台城下町に吸収合併された[14]。また、原町の宿場は石巻街道(塩竈街道)下り第一宿駅の原町宿(北緯38度15分52.1秒 東経140度54分1.8秒)[注 5]に再編され、旧・北目城下町の西隣には奥州街道上り第一宿駅の長町宿(北緯38度13分50.8秒 東経140度53分7.9秒)[注 3]が設置され、それぞれ仙台城下町とコナベーションした。この結果、仙台は「2城下2宿場連接都市」の様相を呈した。またこれ以降、奥羽(東北地方)最大都市となった(参照)。旧・陸奥府中では、塩竈(現塩竈市、地図)が仙台城下町の外港として発展し、塩竈と仙台との間に造られた運河系により物流の中継地となった蒲生(北緯38度15分33.5秒 東経141度0分28.8秒)や原町も発展した。
明治になると、東京と青森のほぼ中間(双方からともに約350km)に位置する当地に、東北鎮台(→仙台鎮台→第2師団)が設置されて陸軍施設が集まり、「軍都」の側面を持ち始めた。1878年(明治11年)に仙台区となり、1882年(明治15年)に木道社が日本初の人車軌道(後に日本で2番目[19] の馬車軌道に転換)を仙台 - 蒲生間に開業。1887年(明治20年)には旧制二高が創立、日本鉄道(現JR東北本線)仙台駅も設置された。同駅の設置により、木道社は廃業して蒲生は中継地としての地位を失い、船運中心の江戸時代に発展した石巻や塩竈から、鉄道が集積する仙台に商権が移って[20]、現在に至る「商都」の側面を手に入れた。
1889年(明治22年)4月1日に市制施行。日露戦争を機に1907年(明治40年)には東北帝国大学(現・東北大学)が創立し、「学都」としての地位を確立。また、同年から大正、昭和初期にかけて「五大事業[注 9]」を推進して近代都市へと脱皮し、「森の都」や「杜の都」と呼ばれるようになった。中心商業地は一番町へと移り(参照)、郊外ではかつて宮城郡役所が置かれた原町、名取郡役所が置かれた長町など隣接町村と合併して、これら新市域に工場地区を形成した。また、秋保電気鉄道や日本初の旅客用地下鉄を開業した宮城電気鉄道等の沿線には行楽地が開発された。
1941年(昭和16年)、鉱工業が発達する福島県・秋田県に続いて東北地方で3番目に日本銀行の支店が置かれるなど、太平洋戦争前後に中央省庁の出先機関が集積する「行政都市」としての側面を得た[21]。統制経済下で困窮した商工業者が満州国に渡って仙台村を拓いたり、仙台空襲により中心部が廃墟となったりした戦争が終わると、仙台駅前には大規模な闇市が生まれ、東北各地との間で鉄道を使った物資の集散もなされた(参照)。戦後占領期には戦災復興事業により、市街地に広幅員道路が縦横に建設されて現在の都心部の基盤となった。また、闇市に替わって公定価格マーケットや路上の屋台が市民生活を支える一方、宮城県に進駐した約1万人のGI向けに仙台駅北側のX橋(宮城野橋)周辺には歓楽街が誕生。X橋は日本ハードボイルド小説の嚆矢の舞台となった[22]。
高度経済成長期になると、企業の支店が多く進出して第三次産業が伸長し、「札仙広福」と並び称される支店経済都市となった。また、1964年(昭和39年)の新産業都市指定を機に、都市計画区域を隣接する宮城郡泉町(1971年より泉市、地図)・宮城町(北緯38度16分7.2秒 東経140度45分50.3秒)、名取郡秋保町(北緯38度15分30.1秒 東経140度40分16.9秒)に広げ[23]、さらに1970年(昭和45年)には12市町による「仙塩広域都市計画区域」が指定された[24]。すると人口集中地区 (DID) の急速な拡大とモータリゼーションが促進され、都心部の交通渋滞解決の必要から国道4号仙台バイパス沿いに工業・流通地区を新設、業者が移転して空いた国分町は歓楽街に転換していった。また仙台市地下鉄の計画も始まり、1976年(昭和51年)には仙台市電が廃止された。市電廃止は、「2城下2宿場連接都市」期における市街地の縁にあって、かつ市電と鉄道のターミナルだった北仙台・原町・長町の市内3拠点の商業中枢性を奪う結果も招いた[23]。
1962年度(昭和37年度)から県内総生産で[25]、1980年(昭和55年)国勢調査からは人口でも(参照)、福島県を抜いて宮城県が東北最大県となった。すると仙台市は、泉・宮城・秋保の1市2町を編入合併し、県から権限を移譲されて市制100周年の1989年(平成元年)4月1日に全国で11番目となる政令指定都市に移行(参照)。この間、1982年(昭和57年)の東北新幹線開業に合わせ、仙台駅の建て替えと大規模なペデストリアンデッキを伴う駅前整備がなされ、1987年(昭和62年)の政宗ブームや地下鉄南北線開業に始まるバブル景気期には民間投資と箱物行政(参照)により都心部に高層ビルが建ち並び始めた(参照)。
一方で市は郊外部において、北の泉中央副都心[注 10]、南の長町副都心[注 3]、東の仙台港副都心(現みなと仙台ゆめタウン)、西の愛子副都心の4つの副都心を設定した。しかし、地下鉄沿線の泉中央・長町の両副都心やロードサイド店舗に物販・職場が郊外化する傾向が見られるようになったため市は、バブル崩壊後の1990年代後半からコンパクトシティを志向するようになり、都心部への「アクセス30分構想[26]」を進めている(参照)。
2000年代に入ると高速バスの仙台 - 福島線や仙台 - 山形線などにおける値下げ・増便競争、および、仙台発着便の新規開設が進み、県外からの集客力が一気に増強した。また、JR仙台駅東口側一帯[注 11] における土地区画整理事業に伴って宮城野通が開通し、その地下にJR仙石線の地下新線が移転開通、東口駅前広場も完成した。そこに2004年(平成16年)、宮城球場(北緯38度15分23.7秒 東経140度54分9.5秒)を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルス(チームカラーがクリムゾンレッド)が新規参入すると、都市計画用途地域で赤系色に塗られる地域(赤:商業地域、橙:近隣商業地域)への県外・海外資本の投資が進み「レッドバブル」と呼ばれた[注 12]。2006年(平成18年)に仙台・宮城デスティネーションキャンペーン(2008年10月1日 - 12月31日)の開催が決定すると投資は郊外を含めて加速、「ミニバブル」「プチバブル」などと呼ばれる活況を呈した(参照)。しかし、リーマン・ショック後の景気後退に加え、東日本大震災で大きな被害を受けた。震災後は復興の拠点となる一方、2015年(平成27年)の地下鉄東西線の開業も重なり、様々な開発が活発化している。
東京特別区部を除くと横浜市・大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有する市[3]。中部地方における行政・経済・文化の中枢で、東日本と西日本を結ぶ交通の要所となっている。
古くは三種の神器のひとつである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る[4]熱田神宮がある鳥居前町であり、江戸時代は尾張徳川家の治める城下町として繁栄した歴史を持つ。また、タイ王国から寄贈された真舎利(釈迦の遺骨・お骨)を安置するために創建された日本唯一の寺[5]である覚王山日泰寺がある。
名古屋市を中心として中京圏を形成し、愛知県内や岐阜県南部、三重県北部に多くの衛星都市を持ち、日本の三大都市圏の1つに数えられる。2019年の都市的地域の人口は約1,024万人と推計される[6]。中京圏の域内総生産は約3,637億ドルであり、これは国内で3番目、世界で第22番目の規模である[7]。
アメリカ合衆国のシンクタンクが2019年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界70位の都市であると評価された[8]。ユネスコの創造都市に認定されている[9]。市章は、尾張徳川家の合印に由来する「㊇」である[10]。
大阪市(おおさかし)は、大阪府中部に位置する市。大阪府の府庁所在地であり、政令指定都市である。
西日本および近畿地方の首位都市であり、経済・文化・交通の中心都市。また、京都市や神戸市を含めた、世界有数の経済規模を誇る京阪神大都市圏の都市中枢を成す。市域は24の行政区からなる。市庁所在地は北区中之島(淀屋橋)。市域に多数の河川や堀を有し、歴史的にも港湾機能や河川交通が発達していたことから水都の異名を持つ。4世紀に都として難波宮が置かれて以降、およそ1700年に及ぶ歴史を有する。現在では、商業や国際観光などが盛んな[1]アジアにおける世界都市である。
大阪市の都市としての源流は弥生時代後期〜古墳時代に遡る。日本書紀によると、第15代応神天皇が行宮として難波大隅宮を整備したとされている。その後の第16代仁徳天皇は難波高津宮を皇居とし、その後国内流通の中心である住吉津や難波津が開港され、本格的に都市としてのスタートを切ることになった。後に我が国の都として難波宮が整備されたが、その後の度重なる遷都により、首都は現在の奈良県・京都府などに移ったため、その後は主に商都として歩むことになる。
市域を中心(首位都市)として、大阪都市圏および京阪神大都市圏を形成している。大阪市の2016年度の市内総生産は約20兆円で[2]、日本国内では東京区部に次ぐ規模を誇る。これは政令指定都市中最大であり、北海道や千葉県、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回り[3]、約370万人の人口を持つ横浜市の約1.5倍の市内総生産である[4]。また、京阪神大都市圏は圏内総生産約80兆円、世界7位の経済都市圏である[5]。
夜間人口は約275万人(全国2位)、人口密度は政令指定都市中1位(全市町村中5位)、昼間人口は市外から多くの通勤・通学者が流入するため、約354万人である。面積は、全国に20市ある政令指定都市の中でも川崎市、堺市、さいたま市に次ぎ4番目に小さい。これは横浜市のおよそ半分、名古屋市のおよそ3分の2程度であるが、行政区が24区と政令指定都市中最多であるため面積が10km2に満たない行政区が多い。近年では都心回帰が顕著で、大阪都心6区や都心9区を中心に人口が増加しており、西区や城東区では人口密度が2万人/km2を超えている。
古代より瀬戸内海・大阪湾に面した立地から、住吉津や難波津などの港を持ち、港湾都市、国内流通の中心として栄え水の都と称された。中世には、渡辺津や浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として商工業が発展。近世初期には、古代から生国魂神社や難波宮が存在した上町台地の先端付近に豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、経済・交通・金融・商業の中心地として発展。堂島米市場が置かれ、当時の経済の中心であった米の中央市場として機能した。大坂は天下の台所と称され、商業の町で豊かな町人文化(上方文化)を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業(船場の繊維問屋街なども有名)を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」「煙の都」と称された。
1925年に第2次市域拡大を行い、人口は211万人に到達。当時の東京市を上回り、面積・人口・工業出荷額において日本1位、人口世界6位の大都市へと成長した。この時代を「大大阪時代」と呼ぶ[6][7][8][9]。1923年に都市計画学者である關一が第7代大阪市長に就任すると、關は堺筋に代わる市のメインストリートとして、御堂筋の拡張・整備を行い、その地下に日本初の公営地下鉄である大阪市営地下鉄(現在の大阪市高速電気軌道〈Osaka Metro〉)御堂筋線の一部(梅田駅-心斎橋駅)を建設するなど、現在につながる大阪の基礎を作り上げた。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発であり、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に江戸時代からの歴史を持つ問屋街が発達している。
Osaka Metro御堂筋線が市内交通における大動脈として機能しており、新大阪駅-梅田駅-難波駅-天王寺駅といった重要な駅を南北に結んでいる。また、在阪の大手私鉄5社の主要ターミナル駅は全て御堂筋線の駅と接続している。梅田を中心としたキタや心斎橋・難波を中心としたミナミが2大繁華街として繁栄しており、商業の中心地として機能している。他にも天王寺や新世界、京橋、十三などの繁華街を擁し、阿倍野・天王寺エリアにあるあべのハルカスは日本有数の超高層ビルとして知られる。中之島・淀屋橋や北浜界隈の大阪市の伝統的なオフィス街には、金融街が形成されている。また、梅田・堂島・中之島や大阪ビジネスパーク (OBP) には超高層ビルが林立しており、華やかな都市景観を形成している。市役所が所在する中之島や、大阪府庁が所在する大手前周辺には、官公庁や公的機関が数多く立地している。
イギリスの調査機関エコノミスト・インテリジェンス・ユニットが、世界の主要140都市を対象に行った調査「Global Liveability Index(世界住みよさの指標)」2019年度版において、ウィーン、メルボルン、シドニーに次ぐ世界4位、アジア1位の都市と評価された[10]。アメリカのシンクタンクが発表している世界都市ランキング「2020 Global Cities Index(世界都市の指標)」において、世界35位の都市と評価された[11]。イギリスのシンクタンクが発表した2021年の報告書「The Global Financial Centres Index(世界金融センター指標)」によると、世界32位の金融センターと評価されている[12]。
奈良市(ならし)は、奈良県の北部に位置する市。奈良県の県庁所在地及び最大の都市であり、中核市に指定されている。
奈良時代に都が置かれたことから古都と呼ばれる。また京都に対して南都とも呼ばれた。
奈良時代に平城京が置かれた古都であり、天平文化が花開いた地として知られる。
現在の奈良市は、奈良県の北部一帯を占める広域市で同時に奈良盆地の北端にも当たる。市東部は大和高原の一部をなし、標高300mから600m級の高地が続く。市街の北は古代に平城山(ならやま)と呼ばれた丘陵地帯で京都府と接している。平城山を越えて山城と通じる奈良坂は古くからの重要交通路の一つ。
市域は東西に広く、(1) 東部の山間地、(2) 文化財を多数抱え国際観光文化都市としての顔を持つ中東部の中心市街地、(3) 大阪の衛星都市・ベッドタウンとしての性格を持ち住宅地として開発が行われてきた西部と、複数の顔を持ち、同じ市内でありながら地域の雰囲気、住民の指向は違いを見せる。
奈良市街地の西にはウワナベ古墳など5世紀の巨大古墳が築かれ、佐紀盾列古墳群を形成している。『和名抄』に見える大和国添上郡山村郷、楊生郷、八島郷、大岡郷、春日郷及び添下郡佐紀郷、鳥貝郷の地であった。
現在の市域周辺が日本史の舞台に登場するのは、710年に都が藤原京から平城京に遷ってからのことである。その後、何度か短期間の遷都があったものの長岡京に遷る784年まで、この地が日本の中心となっていた。長岡京への遷都後も、東大寺や薬師寺、興福寺などの仏教寺院勢力がこの地域に残り、南都と呼ばれた。
中世になってからも、興福寺が大和守護職に任じられるなど広大な荘園を有する仏教寺院勢力は依然として影響力を保持していた。むしろ大寺院の勢力は戦乱の時代においてこそ影響力が大きく、そのために何度か戦火に見舞われた。2度の大仏焼失事件(南都焼討と東大寺大仏殿の戦い)などはその象徴的な出来事といえる。しかし、室町時代から戦国時代にかけて、他国および近在の所領も含めて在地の大和武士団が実効的な支配を行うようになったために大寺院の勢力は衰えた。
江戸時代には江戸幕府の奈良奉行が設置されて天領として徳川家の直接支配地になった。江戸時代の寺町の雰囲気を残すのが奈良町(ならまち)である。また、現在の市域の南部は伊勢国の津藩の飛び地(古市町付近が藤堂家の領地)であった。同じく奈良市域の北東部は柳生藩の領地となっていた。
太平洋戦争中は同じ宗教都市である京都市と共に大規模な空襲は受けなかったため、21世紀の令和現在も多くの文化遺産が残されている。
川崎市(かわさきし)は、神奈川県の北東部に位置する市。政令指定都市である。人口は約154万人。 市内全域が旧武蔵国に属し、神奈川県内の市町村では唯一、旧相模国に属していた地域を含まない。市域は7区の行政区に分かれる(川崎区・幸区・中原区・高津区・多摩区・宮前区・麻生区)。
政令指定都市20市の中で面積が最も小さい[1]。神奈川県内で横浜市に次ぐ第2の都市であり、非都道府県庁所在地の市では最大かつ唯一人口が100万人を超えている。財政状況も良く、財政力指数は1.02(2019年度)で政令指定都市では最も財政に余裕がある。
東京へのアクセスが良いため、人口は増加傾向にあるが、面積が狭く市のほぼ全域で宅地化が進んでいるので人口密度は高い。
古くは東海道、中原道、大山道、津久井道が南北に通り、その宿場を中心にして発展してきた。 川崎大師は初詣に多くの参拝客が訪れる寺社として有名であり、その数は神奈川県で1位である。
川崎駅・京急川崎駅周辺が市の中心地であり、特に川崎駅東口を中心に関東有数の繁華街が広がっているほか、西口にはショッピングセンターとして日本2位の売上を誇る巨大商業施設ラゾーナ川崎プラザが位置しており、駅周辺は非常に賑わっている。 東海道線や京急線を中心に古くからの市街地が形成されているほか、現在は市の北西部を中心に東京近郊の新興住宅街(ベッドタウン)が広がり、臨海部に広がる京浜工業地帯の工業都市でもある。
また、多摩川沿いの武蔵小杉駅周辺には東京への通勤者向けのタワーマンションが林立しており、川崎市は繁華街、工業地域、超高層マンション街、郊外の新興住宅地と多様な面を併せ持っている。
2015年度の東京都へ通勤・通学する15歳以上就業者・通学者の割合は41.1%であり、いわゆる「神奈川都民(川崎都民)」が非常に多い。神奈川県内でありながら、県庁所在地である横浜市よりも東京との結びつきが非常に強い。2015年の昼夜間人口比率は88.3であり、政令指定都市でありながら、東京のベッドタウンとしての側面が強いため、100を大きく下回っている[2]。神奈川県の北東部、県の最東端に位置し東京都と横浜市にはさまれた細長い市域を持つ。県内では、横浜市以外の市町村とは隣接していない。市の北側を多摩川が流れ東京都との境となっている。 街道沿いには古くから栄えていた街が点在し、周辺は閑静な住宅地となっている。しかし、駅周辺は東京との近さから近年開発が進み、特に川崎駅前周辺は市内随一の繁華街で昼夜を問わず人が多い。 西部の多摩丘陵にはのどかな田園風景が広がり、新興住宅地が多い。東部の東京湾岸の埋立地は隣接する横浜市鶴見区沿岸部とともに大規模な重工業地帯となっているなど、多様な面を見せる。最高地点は麻生区黒川の町田市との境界付近で海抜148mとなっている。
広島市(ひろしまし)は、広島県西部の安芸地方に位置する市。広島県の県庁所在地で、政令指定都市である。人口は約119.6万人。
中国地方の中西部にあり、市域は、中区・東区・南区・西区・安佐南区・安佐北区・安芸区・佐伯区の8区で構成される。 中国・四国地方で最大の人口を有する市でもあり、大企業の支店や官公庁の出先機関が多く拠点を置く中国地方の支店経済都市・地方中枢都市である。
世界史上初めて核兵器(原子爆弾)で爆撃された都市として、世界的に知名度が高い。それ故に、「国際平和文化都市」としても一定の影響力を持っており、広島市長の発案で創設された「平和首長会議」には150を超える国から4,600以上の自治体が加盟している[1]。第二次世界大戦以前には「軍事都市」であった歴史とは対照的である。
「広島市への原子爆弾投下」も参照
古代・中世には現在の広島市街地がある太田川デルタ(三角州)は形成されておらず、安芸国の中心としては国府が現在の安芸郡府中町または東広島市西条にあったと推定され[2]、太田川中下流域の祇園[3]・戸坂[4]から可部[5]にかけて荘園、郷が広がっていた。16世紀末、戦国武将の毛利輝元が太田川デルタを干拓して築城を開始したのをきっかけに地域の中枢機能が太田川デルタへ移り、都市としての広島の発展が始まった。江戸時代には、広島藩42万石の城下町として藩主浅野氏のもとで発展した。明治時代に入ると、陸海軍の拠点が集中する軍事都市(軍都)となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて明治天皇が行在し、第7回帝国議会は広島市で開かれるなど、臨時の首都機能を担った[6]。
第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカ軍の戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」によって広島市中心部の相生橋上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、きのこ雲が立ち上り、市街地は一瞬にして破壊された。投下当日中に数万人、1945年末までに推計13万人の人命が奪われ、生存者も火傷痕(ケロイド)、放射線後遺症、精神的後遺症(PTSD等)、遺伝への不安に生涯苦しむなど、市民が経験した苦痛は人類史上類を見ないものであった。
1945年の原爆投下後は一時的に死亡者が急増して人口が大幅減少した。広島市の人口の20パーセント近くが減少したが、戦後は重工業やマツダなどの自動車産業を中心に見事復興し、現在では日本の主要な工業都市となっている。1980年4月1日には札幌市・川崎市・福岡市(3市とも1972年4月に指定)に続いて全国で10番目となる政令指定都市に指定された。1985年3月に人口が100万人を突破し、現在では全国の市で10番目の人口を抱える(→日本の市の人口順位)。中四国地方最大の人口を誇り、地域内では唯一の100万都市である。また、札幌市・仙台市・福岡市とともに地方中枢都市の一角を担う存在である。地方中枢都市の中では唯一(狭義の)地下鉄が通っておらず、市内交通は路面電車の広島電鉄とバスが担っている。特に路面電車は規模・乗車人数において国内最大であり、日本一の路面電車の街となっている。
札幌市(さっぽろし)は、北海道の道央地方に位置し、石狩振興局に属する市。道庁所在地にして石狩振興局所在地でもあり、北海道の政治・経済・文化の中心地となっている。北海道最大の人口(約196万人)を有する政令指定都市である。
日本最北の政令指定都市であり、全国の市の中でも横浜市、大阪市、名古屋市に次ぐ4番目の人口を有しており、北海道全体の人口の約4割弱(約37%)を占めている。北海道のプライメイトシティであり、札幌都市圏を形成している。 アイヌの人々が暮らしていた蝦夷地は1869年(明治2年)に北海道と改称され開拓使が置かれて札幌本府の建設が始まった[1]。1875年(明治8年)に最初の屯田兵が入植。札幌の建設計画は当時の開拓判官島義勇によって構想され、京都を参考にした街づくりは創成橋東側のたもとを基点に東西の基軸を創成川、南北の基軸を渡島通(現在の南1条通)として区画割を進めていった[2][3][4](現在の南北の基軸は大通公園[5])。このため、中心部の多くは街並みが碁盤の目状になっている[6]。
その後、周辺町村を編入・合併して市域を拡大していった。
1972年(昭和47年)にはアジア初となる冬季オリンピック(札幌オリンピック)を開催[7]。その後も国際スキー連盟の各種国際大会やアジア冬季競技大会、国際大学スポーツ連盟主催の冬季ユニバーシアード競技大会、FIFAワールドカップ、FIBAバスケットボール・ワールドカップ、世界ラリー選手権、ラグビーワールドカップなど数多くの国際大会が開催されている。札幌市としても各種イベントや展示会、企業の会議や報奨旅行などの誘致・開催 (MICE) への積極的な取り組みを行っており[8]、「国際会議観光都市」に認定されている。毎年1,300万人前後の観光客が訪れる観光都市となっており[9]、市町村の魅力度ランキング調査でも毎年上位にランクインしている都市である[10]。2013年(平成25年)にはユネスコ(国際連合教育科学文化機関)により創設された創造都市ネットワークの「メディアアーツ都市」分野に世界で2都市目に(アジアでは初めて)認定された[11][12]。
2026年冬季オリンピック開催地に立候補することを表明して誘致活動を行っていたが[13][14]、立候補および誘致活動を2030年大会に変更する意向を示した。
石狩平野の南西部に位置し、面積は1,121.26 km2で香港とほぼ同じ面積を有している[1]。距離は東西42.30キロメートル(km)南北45.40 kmにわたって市域が広がっている[1]。平坦な中心部などは豊平川が形成した扇状地である[6]。
市南西部は山岳地帯で、一部は支笏洞爺国立公園に指定されている[17]。
由来はアイヌ語の「サッ・ポロ」(sat-poro、乾いた大きい)とする松浦武四郎による説(「かつての豊平川が乾季に極端に水量が少なくなる川だったため」、あるいは「一帯が乾燥した広大な土地だったため」)や、「サリ・ポロ・ペッ」(sari-poro-pet、その葦原が・広大な・川)であるとする山田秀三による説などがある[1]。
前述の通り、札幌はアイヌ語由来の地名であるが、確認された文献資料で最古のものはシャクシャインの戦いにおける津軽藩士の報告書であり、石狩河口から3里遡った集落が「さつほろ」と表記されていた[15]。
古い記録では平仮名で表記されているが、時代を経るにしたがってカタカナ表記、漢字表記へと変わっていった[16]。 17世紀~18世紀ごろの文献では、「さつほろ」「さつぽろ」「しやつほろ」「沙津保呂」など表記のゆれはあるものの、平仮名や万葉仮名で記されている。最後に見られる平仮名表記は1807年(文化4年)の「下さつほろ」である。 1791年(寛政3年)の地図に「サツホロ」と表記されて以降、「サツホロ」というカタカナ表記が一般的になる。それ以外にカタカナで「サツポロ」「シヤツボロ」と示されたものがあるが、これは一般的ではない。 幕末になると、「察縨」「札縨」と漢字で表記されるようになる。これが明治期に「縨」が「幌」に変わり、「札幌」という表記が定着した。
東京(とうきょう、英: Tokyo)は、日本の地名。関東平野の南部に位置し、東京湾に面する都市。日本の首都機能がある[1][注 1]。 「東京」は、日本の首都で広域的地方公共団体である東京都を指す場合と、特に東京都区部(東京23区)を指す場合とがある[2]。
東京は、江戸幕府の所在地であった江戸(えど)という都市が1868年9月(慶応4年7月)に名称変更されたものである。もともと江戸の地には江戸幕府すなわち政府が置かれ、徳川家の人々と老中らが政治を行っており、その一方で京都にも朝廷があり、天皇と太政官がいるといった状態の役割分担や二重構造(「複都制的」状態[注 2])があったが、1869年3月28日に、京都に「都(みやこ)」としての位置付けを残したまま、「東京」に奠都(てんと)[注 3]された[3]。こうして東京は日本の事実上の首都の役割を担ってきた[注 4][注 5]。
現在、東京は日本における政治・経済・文化の中心である。政治面では、日本国政府が本拠地とする。立法府である国会議事堂、司法府の頂点である最高裁判所、行政府の長である内閣総理大臣の官邸、中央省庁街(「霞が関」)などは、いずれも東京の中心部である東京23区にある。経済面では、日本の株式上場企業の本社のほとんどが東京に集中し、近年では(東京圏では)購買力平価(PPP)を基にしても東京都市圏のGDPは1兆5369億ドル(2014年)であり[5]、世界的な経済都市であり、大消費地でもある。文化面では、たとえば現在では(東京都内に)千数百におよぶ劇場・ホール・ライブハウス類があり[6]多数のアーティストたちが活動する場であり、ポップカルチャーなどの新しい文化の発信地でもあり、ミシュランガイドの星つきの飲食店の数は世界最多で[7]、世界各国の食文化が華開いている場所でもある。東京は、日本各地、近隣の国々、世界各国から人々が観光に訪れる都市であり、さらに東京に移住した外国人の人口は2020年1月時点でおよそ57万7千人で[8]、独り暮らしや家族単位の暮らしをしている人々も多いが移民街も形成されており、《多文化共生》、つまり様々な国の文化背景を持つ人々が仲良く暮らすことが、以前からそれぞれの地区の善意の人々によって進められており、近年では行政によっても積極的に推進されている場所でもある[9]。現在、東京には、23特別区・26市・5町・8村の基礎自治体がある。人口は(2010年時点で)1316万人[4]。
東京のこれまでの道程は決して平坦であったわけではなく、関東大震災や東京大空襲で焼け野原となってしまったこともあるのだが、戦後に復興のために膨大な努力をしたおかげで、現在では世界最大級のメトロポリス・世界都市となっている。東京は明治期にも課題が山積みの都市であったが(#明治維新後の課題と都市政策を参照)、現在も、高い犯罪率、人口過密、通勤ラッシュなど、さまざまな課題を抱えている都市である(#近年の東京が都市としてかかえる課題を参照)。
総合力
2017年に日本の森ビル傘下の民間研究所が発表した「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン・ニューヨークに次ぐ世界3位と評価された[10]。また2017年にアメリカのシンクタンクが発表した総合的な世界都市ランキングでは、ロンドン・ニューヨーク・パリ・シンガポールに次ぐ世界5位と評価された[11]。
住みやすさ/住みにくさ
2018年にイギリスの『エコノミスト』誌の調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(EIU)」が発表した「2018年世界で最も住みやすい都市ランキング」では東京は7位だった(なお、1位 ウィーン(オーストリア)、2位 メルボルン(オーストラリア)、3位 大阪(日本)、4位 カルガリー(カナダ)、5位 シドニー(オーストラリア)、6位 バンクーバー(カナダ)、7位 東京(日本)、8位 トロント(カナダ))[12]。
ドイツのインターネイションズ(InterNations)が毎年発表している「外国人が住みやすい街ランキング」の2019年版では、東京は26位(1位 台北(台湾)、2位 クアラルンプール(マレーシア)、3位 ホーチミン(ベトナム)、4位 シンガポール、5位 モントリオール(カナダ)6 リスボン(ポルトガル)、7 バルセロナ(スペイン)、8 ツーク(スイス)...と続き、はるか下の26位にようやく現れる。)[13]。 イギリスの人材調査会社ECAインターナショナルが2019年1月に発表した「アジア(アジア・オセアニア地域)の、駐在員が最も住みやすい都市ランキング」では、大阪・名古屋・東京が並んで5位。(なお、1位 シンガポール、2位 ブリスベン(オーストラリア)、3位 シドニー(オーストラリア)、 4位 アデレード (オーストラリア)。前年は、大阪は3位、名古屋6位、東京も6位)[14]。
「東京」とは「東にある都」という意味[15]。
江戸を東京と改称する構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』にすでに現れていた[16][17]。佐藤は、日本が世界に躍り出るためにはそもそも日本の守りを強固にする必要があるので、そのためには、都は江戸に移し、江戸を「東京」と呼び、大阪を「西京」と呼び、東京・西京・京都の三京にする、という構想を記したのである。
大久保利通が佐藤の書に影響を受けて江戸を東京と改称することを建言したという[16]。
1868年9月3日(慶応4年(明治元年)7月17日)に出された『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』において、江戸の町奉行支配地域を管轄する東京府が設置されると定められ、以後「東京」という名称が公式に用いられることになった。
こうして「東京」と表記されることは決まったのだが、読み方については根拠となるような法令が出たわけでもなかった。「とうきやう」(呉音)が正規に使われたが、明治20年代前半頃は漢音読みの習慣も残っていたため「とうけい」の読みも少なくなかった[18]。日刊新聞の発達により人々が情報を共有する機会が広がり、第1期国定国語教科書で「東京」の振り仮名が「トーキョー」と表記され、混在はなくなった。
なお漢字については、昭和初期までは「東亰」という表記も混用されていた[19]。この「亰」という文字は「京」の異体字である[20]。「亰」を使ったのは、中国の東京(Dongjing、ドンジン)との混同を防ぐためともいわれるが、後に同じ字となった。
横浜市(よこはまし)は、神奈川県東部に位置する市。神奈川県の県庁所在地及び最大の都市で、政令指定都市である。
東京大都市圏に属する。市の人口は約378万人で東京23区を除く全国の市区町村で最大の人口である。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国鎌倉郡(戸塚区、泉区、栄区、瀬谷区[注釈 2]の全域と港南区、南区、金沢区の一部)。
日本有数の港湾都市・商工業都市である[1]。横浜駅からみなとみらいにかけての海岸沿いには、超高層ビル群を形成している。観光地としても人気があり、横浜中華街や元町、山下公園などがある関内地区を筆頭に、横浜みなとみらい21地区や山手地区などが有名である。食の名物は洋食、横浜中華街の中華料理、崎陽軒のシウマイ弁当、横浜家系ラーメン、サンマーメンなどがある。
日産自動車グローバル本社やいすゞ自動車本社(2022年5月以降予定)等の自動車関連企業が集まっており、自動車工業都市という側面も持つ。
横浜市は東京都心から南南西に約30kmから40km圏内にある、東京湾に面した神奈川県で最大の自治体である。横浜市の中心機能は中区と西区に集積しており、行政の中心地は関内地区(中区の関内駅周辺及び桜木町駅周辺)[注釈 3]で、横浜市最大の商業地は横浜駅周辺地域(西区の北部一帯)である。西区と中区にまたがって存在している新都心「横浜みなとみらい21」エリアは、行政の中心である関内地区と一大繁華街である横浜駅周辺という2つの中心地(ツインコア)を統合する役割で再開発された。
横浜市では都市再開発が進められており、横浜市内の各地区の結び付きを強化する計画が進行中である。経済活動の中心地であり、繁華街の横浜駅周辺地域は、横浜市政の中心地である関内地区から北北西に約3kmの所にあり、両地域間は事実上分断されており、横浜市政は両地区の中間に位置する横浜みなとみらい21地区(桜木町駅周辺)の開発を進めて、横浜都心の一体的発展を進めている。また、横浜都心臨海部(インナーハーバー[16])に位置する東神奈川臨海部周辺(東神奈川駅周辺及び山内埠頭周辺)地区[17]、横浜駅周辺地区、みなとみらい地区、関内、関外地区、山下埠頭周辺地区では長期的な都市の再生計画が進行中で、これらの五地区を連節バスやLRT(次世代型路面電車システム)で結ぶ案も検討されている[18][19]。
横浜市域は広大であり、横浜市政が指定する都心(ツインコア)は、横浜都心(関内・関外地区、横浜みなとみらい21 (MM21) 地区、横浜駅周辺地区[20])[21]と新横浜都心(城郷地区(小机駅周辺地区)、羽沢地区(羽沢横浜国大駅周辺地区)、新羽地区(新羽、北新横浜駅周辺地区)、新横浜地区(新横浜駅周辺地区))[22]である。また、主要な生活拠点(旧:副都心)としては、鶴見駅周辺、港北NT(港北ニュータウン)センター、二俣川駅・鶴ヶ峰駅周辺、戸塚駅周辺、上大岡駅周辺が指定されている[23][24]。港北NTセンターを除く各地区は、JR東海道線、横浜線、京急本線、相鉄本線の鉄道駅を中心として古くから発展してきた街である。港北NTセンターは、1965年に策定された横浜市六大事業の一つとして、当時の港北区(現在の中心は都筑区)に計画的に開発された街である。都心(ツインコア)と各主要な生活拠点(旧:副都心)間は、横浜市営地下鉄のブルーラインおよびグリーンライン(横浜環状鉄道)[25]、横浜環状道路を中核とした自動車専用道路によって[26]、計画的に結ばれる予定となっている。
市内北東部の鶴見区や神奈川区の臨海部を中心に、隣接する川崎市や大田区などとともに京浜工業地帯の一角を成しており、多数の重化学工業の工場や大小様々は事業所が立地している工業都市でもある。
2010年代以降、首都直下型地震発生の危険性が高まっている。2018年に今後30年間で震度6弱以上の揺れに見舞われる確率が82%と算出されており、地震学的には横浜市全体が危険地帯とされている[27]。
市域は神奈川県の東部にあたり、東経139度43分31秒(鶴見区扇島)から139度27分52秒(瀬谷区目黒町)、北緯35度35分33秒(青葉区美しが丘西)から35度18分44秒(金沢区六浦南)に位置する[38]。東は東京湾に面し、北は川崎市、西は大和市・藤沢市・東京都町田市、南は鎌倉市・逗子市・横須賀市に接する。市域の面積は神奈川県の約18%を占め、県内の市町村で最も広い。
横浜市域の地形は、丘陵地、台地・段丘、低地、埋立地に分けられる。
市の面積の多くを丘陵地が占めている。丘陵地は、市域中央部よりやや西よりに分布し、市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ケ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に、北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は、多摩丘陵の南端に位置し、標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は、三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め、標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。鎌倉市に山頂部を置く大平山をはじめとする通称「鎌倉アルプス」に続く峠部分が市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m)であり、市内最高峰の大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)や円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地に位置する。一方、北側の丘陵は最高峰が高尾山(緑区、100m)と然程高い山はない。もっとも、平均標高は高く、旭区が市内で最も高い。
台地・段丘は、丘陵地の東西にある。東側の台地は鶴見区の地名を取って下末吉台地と呼ばれ、標高は40mから60mで鶴見川付近まで続く。瀬谷区、泉区、戸塚区など西側の台地は、相模野台地の東端に当たり、標高は30mから70mで南に向かって低くなっている。本牧付近で台地が海に突き出し、その南側は根岸湾と呼ばれる。横浜駅周辺も幕末まで袖ヶ浦と呼ばれる入り江だった。
低地には、丘陵地や台地を刻む河川の谷底低地と沿岸部の海岸低地とがある。谷底低地は鶴見川に沿って広がり、平坦な三角州性低地を形成する。また、海岸部には埋立地が造成され、海岸線はほとんどが人工化されている。金沢区の小さな入り江平潟湾は、鎌倉幕府が江戸湾側の海の玄関口とした天然の良港であった。島としては金沢区の野島(扇島・八景島は人工島)があり、野島海岸が横浜で唯一の自然海浜となった。